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2001年頃の超ハズイ文章 [雑感]

何かの会合で、ギャグのつもりで作成したテクストと思われる。

「序」だけ。


『軽薄哲学論考』
                          
  序―<カッコイイ>ということ―

 これは未だ厳密に整理される以前の展開される余地のある未熟な思考の素描に過ぎず、非体系的な各テーゼのいくつかは互いに矛盾するものもあろう。筆者はそれを安易な弁証法によって<止揚(アウフヘーベン)>することを欲しない。むしろ諸テーゼを反弁証法たる<廃滅(グリュントゲーエン)>に導き、なおも残った言葉たちのみを信ずる。
 とは行ったものの、私は多分、剥き出しの各テーゼを、その間違いに気付く、あるいは気付かされるまでは、概ね信ずるであろう。
 私は信じる。自分が間違っていることを含めて私の全体を信じる。
「私の全体」とは何か、私の判断、乃至は評価する全ての事柄である。「それについては自信がない」といった場合、その自信がないということを信ずる。私に無意識はない。小脳はある。
「自分が間違っていることを信じる」とは何か、「自分が間違っていることを信じる」ことは間違っている。「『自分が間違っていることを信じる』ことが間違っている」ことを信じることは間違っている……。畢竟、私は何も信じない。非‐非AはAではない。
 私は、私の「グリュントゲーエン」とか「畢竟、私は何も信じない」といった言説を、密かに、<カッコイイ>と思っている(「私の」はない方が文章としてはスッキリするのだが、そうすると他人の言動の中にこれらの気取った言葉たちを発見した時の私の反応の大部分が説明できなくなる)。同時に、そう思っていることが<カッコワルイ>と世人に思われることを知っている。知っているというより、私も<カッコワルイ>と思う。
「密かに」が重要である。公然と<カッコイイ>と思うことは許されない。それは<カッコワルイ>から。
 私の世界像はこの<カッコイイ/カッコワルイ>という生活関心の原理の上に成り立っている。ところで哲学とはこのような自己観念の起源を問う旅ではなかったか。
 なるほど哲学はその幼年時代、普遍の世界像を求めた。しかしそのような問いは、世界を解釈する自分というものに跳ね返ってくるものだ(「幼年時代」という語は、単に<カッコイイ>と思ったから使ったまでであって深い意味はない。「初期」というほどの意味である。私は、哲学が古代から現代に至るまで時代を経るにつれて、あたかも幼子が大人へと成長するように成熟を重ねてきたなどという安易な進歩主義を標榜する者ではない。そんなことを言い出したら、哲学はそのうちアルツハイマー病にでもかかって、ハンセン病も併発し、渋谷のBunkamuraの前辺りで入滅の時を迎えなければならないではないか)。
 私の<カッコイイ>のうちのあるものは、世間の<カッコイイ>を<カッコワルイ>と思うことである。このようにヒネクレ者の自己観念はともすれば共同観念に背反し、自己を絶対化していく傾向を有している。そのことを<カッコワルイ>と思えない人間を、私は「自意識過剰自己認識欠如型」と呼んでいる(これは別に世間の<カッコイイ>を素直に、カッコイイ。と思いなさい、といっているのでは全然ない)。
 私が哲学するのはそれが<カッコイイ>からである。もしくは、<カッコイイ>限りに於いてである。そういう<かっこよさ>を追求していきたい。


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